2月初旬、大学のプロジェクトで福島県飯館村に行ってきた。飯舘村は阿武隈山中にあり、しばしば冷害に見舞われる貧しい村だった。人々は出身を恥じていたが、町おこしの時代、前向きに考えようという機運が盛り上がり、1986年「いいたて夢創塾」ができ、1987年に開催された「新春ホラ吹き大会」がきっかけで、若い「嫁」を対象にしたヨーロッパ研修「若妻の翼事業」もスタートする。その後、女性起業家たちがたくさん誕生し、「もっとも美しい村」のひとつに選ばれた。
福島第一原発事故、2011年3月12日20km圏内に避難指示が出され、大熊や双葉などから700人が避難してきた。村の人々は食料や物資を提供し支援したが、「このあたりも危ない」との噂で、だんだん避難民はいなくなった。村の人々は心配になるが、3月25日、高村昇長崎大学教授は「村内で生活することに支障がない」と説明、4月1日、山下俊一長崎大学教授は「100mSv未満であればリスクゼロ」と発言。しかし、4月4日、今中哲二京大教授らが避難指示に値すると報告し、乳幼児・妊産婦らは避難を始めた。4月22日、政府は村全域を計画的避難区域指定し、23日に東電が謝罪している。この間に村民は膨大な被曝をした。
その後、過酷な避難生活を経て、2017年3月31日で避難指示は解除され、事故前6500人だった村民のうち820人が帰村した。村内では数件の農家が営農再開しているが、後継者不足、林業キノコ栽培は困難、帰村しても生業とするものがない。2018年4月1日認定こども園と小中一貫校がスタートし、100名の子どもが通うが、9割以上は福島市など村外からスクールバスで通っている。診療所は1軒あるが、診療は週数日のみ、コンビニ1軒。何より大きな問題は、除染の結果、安全に暮らせるようになったとされているが、基準値は依然の20倍に引き上げられ、森は除染できないので、除染した宅地からほんの少しはずれると、みるみる線量計の数値は上がっていく。そして、美しい飯舘村の風景のあちらこちらに万を超えるフレコンバッグの山がある。
飯舘の人々と出会い、飯舘村を訪れ、飯舘村を知れば知るほど、このような現状が腹立たしく悲しい。こんな状況なのに、次々と原発再稼働とは。暮らしやすいコミュニティの形成には長い歴史と人々の努力がある。それを一瞬にして破壊してしまう原発事故。自然災害もそうだろうが、復興や再建はまったく違うと痛感している。プロジェクトは十年で終わるが、福島の問題だけは十年で終わらせることなどできないと思い始めている。
(ニュースレター56号/2019年1月)