バンコクが舞台の小説「愉楽の園」(宮本輝)を読んだのは1989年。細い運河のむっとする草いきれの中を、ボートがゆっくり抜けていく。湿度の高い空気と独特の匂い、そんなイメージが残った。まさかそこに自分が出かけることになるとは、思いもしなかった。 小説「暁の寺」は三島由紀夫がオリエンタル・ホテルで執筆したとか聞いたが、読んだこと以外はもう何も覚えていない。それよりも氏に関する記憶は、大阪・堂島にあった名画座「大毎地下劇場」だ。あの事件があった時、私はそこで映画を見ていた。終わって地下街から表に出ると、号外が散らばっていた。「三島由紀夫、自決!」、大きな活字が興奮していた。マンガの原稿をもって新聞社に行くと、編集部全体が騒然としていた。よく解らなかったが、こんなこともあるのか・・・と思った。 ジャンさんの経験、そして偏見は聞いていて、うるさ・面白かった。バンコク郊外に生まれて、日本語ガイドとして職を得る為に、三ヶ月(わずか三ヶ月だ!)日本語学校に通って、この仕事を始めたという。それにしては驚くほど上手な日本語である。しかし彼女のいろいろな話を聞いていると、日本人にもまた同様の偏見たっぷりの結論をもっているのだろうと思った。私のバンコク知識が、そう呼ぶに値しないほど断片的だったように、ジャンさんのそれも偏見を支えるに十分、断片的なのだろう。『偏見を持ちたいと思ったら、その国を短期間旅行しなさい』とは至言である。
(ニュースレター19号/2007年5月)