兵庫教育大学発達心理臨床研究センタートラウマ回復支援分野 冨永良喜
戦慄した恐怖には、「安心」と「表現」が回復にとって必要な体験であろう。安心と表現のためには、人とひとのよい絆が不可欠である。「安心・絆・表現」は、震災や事件後の学校での活動そして養護施設で生活する子どもたちとの出会いを通して、明確になっていったことである。だから、「安心とつながり」を標榜するNPOに参画させていただくことを光栄に思う。
虐待と犯罪による被害者への支援から最近感じていることを述べたい。
虐待を受けてきた子どもたちの調査によれば、虐待の中でも、「心理的虐待」を受けたことがある子どもの対人関係の力や自己感は酷く損なわれている。身体的虐待は、生命の死をもたらす危険性をはらんでいるが、心理的虐待は、魂の死をもたらすといえる。
「言葉は食べ物と同じだよ。おいしいものを食べると元気がでるね。逆に、腐ったものを食べると下痢をしたり吐いちゃったりするよ。同じように、腐った言葉をもらうと、お腹が痛くなったり、頭が痛くなったりします。だから、言葉も食べているんだよ。でもね、食べ物は自分の手で選べるけど、言葉は耳から目から一方的に入っちゃうでしょ」。これは、予防教育である「心の授業」で言葉の大切さを実感してもらうワークの締めくくりに子どもたちに送っているメッセージである。瀕死の魂に輝く命を蘇らすには、その子の潜在的な力を発見し、ポジティブなメッセージを送るひとが必要である。
そのようなアプローチを「育成的アプローチ」と呼び、ストレスマネジメントをその中核に据えている。
犯罪被害者のご遺族にとっては、核となるテーマは「安心・絆・表現」ではない。「戦いと絆」という方がふさわしいかもしれない。受容と共感のカウンセリングでは、支援にならない。被害者の証人として、立ち会うこと、そして、意見書などで被害者の心情や真実を代弁することが必要である。また、さまざまな不条理から、身体を酷使せざる得ない状況の中で、戦い抜くために、身体を労る術を提案できるかもしれない。裁判などで、自己主張できるようなイメージトレーニングなども支援できることかもしれない。
戦いは、加害者とだけではない。わが国の司法制度の理不尽さとも戦わなければならない。戦うためのエネルギーは、人とひとのつながり(絆)にほかならない。
(ニュースレター第2号/2003年2月)