理事・窪田容子
私は高度経済成長の頃に開発された地域に30年近く住み続けている。子育て中の若い親たちが住みつき、近所は子どもだらけで、遊びにいった家でおやつをもらったり、遊びを教えてもらったりした。そのうち、子ども達の手が離れ、大人達のほとんどが働きに出て、昼間は誰もいない家が増えた。みんな仕事を持ってそれぞれに忙しく、地域の仕事などにも負担感が漂っていた。
そして、今、地域は高齢化し、定年退職した人たちが増えた。時間にゆとりのできた、この世代の人たちのまなざしの暖かさを感じる。水道の調子が悪いと立ち話すると、見てあげようかと言ってくれる水道関係の仕事を退職した男性。夕食のおかずを時折届けてくれる女性。地域の当番も気安く引き受けてくれる人・・・・。子どもは、近所の人の買い物についていったり、いろいろな人に話しかけてもらっている。
時間にゆとりができると、こんなにも人は暖かく優しい。親子、家族との関係も同じだ。忙しいと、どうしても、相手の気持ちを思い遣ったり、受け止めたりをし損ねてしまう。少し前になるが、子どもの虐待に関するシンポジウムに参加したときに、あるシンポジストが「虐待の起こる社会を変えるためには、援助者を含めて、私たち、一人一人が、もう少しゆっくりとした時間を過ごす必要があるのではないでしょうか」と言っていた。老人虐待にしても然りだろう。忙しいと、周りに目を向ける余裕がなくなっていく。どうしても必要なこと以外のことをするエネルギーや、考える時間がさえなくなっていく。
アマゾン源流の、日本人が協力して開発を進めている地域を、作家の中村稔さんが訪れたとき、地域の人がこう言ったという。「近頃つくづく思うんですが、あなた方の暮らす社会は何を求めているのでしょう。一日中、重労働に耐えながらその代償に何を得ているのでしょうか」。「あなた方のつくりだした重い荷物を一度にたくさん運べる自転車や暑い日を過ごしやすくするクーラーはなるほど便利なものだと思います」。その代償として「・・・できなくなった3つのこと。その3つとは、家族と過ごすこと。友達と語ること。そして一人でいろいろなことを思ったりする時間を持つことです」。「・・ここにいるすべての人たち、私も含めてですが、疲れきっております。心がずたずたと言ってもいいかもしれません」。注)
私たちは、手に入れることばかりに目を向けがちであるが、その代償として失っていくものにもっと気付く必要があるのではないだろうか。豊かになることを求めて、本当の豊かさを失っているのではないだろうか。豊かなコミュニティを築いていくためには、もう少し、私たちがゆっくりとした時間を過ごすことが必要なのかもしれない、と自戒を込めて思う。
注)灰谷健次郎 2003 「学ぶこと変わること」『<差別>という名の暴力』花園大学人権研究センター編より
(ニュースレター8号/2004年8月)