理事・窪田容子(女性ライフサイクル研究所)
去年秋頃、担任が友達や自分を叩いたと子どもが言った。保育所、学童保育、習い事、そして学校。これで子どもが所属している組織は全てで体罰があったことになる。
これまでの経験から、私は体罰についてはそれを許容している組織の問題があるため、ある程度公の形で伝えた方が良いと思っている。学校でアンケートが実施された折りに、体罰があること、学校の体罰に対する考えについて回答が欲しいと記載したが、報告書に回答はなかった。校長に伝えると、「はぁ、どこを叩いたんですか?頭や顔?それはいけませんなぁ。いや、最近では、どこを叩いてもいけないと言われるようになりましたがね・・・」。校長の意識はこの程度だった。
しかし、その日担任から電話があった。「確かに○○くんたちは、頭や顔を叩きました。でも、その子たちのお母さんにお電話をして、事情を話して理解してもらってるのですよ」と。私は、お母さんは理解したとしても、それを見ていた子たちは、どうなのか、怖いと思ったのではないかと尋ねた。実際我が子を含めて、多くの子ども達がこの先生を怖がっていた。「あ・・・、今まで、周りで見ている子のことは、考えたことがなかったです。でも今言われて、怖いと思っていたかも。考えたことはなかったです」と先生。うちの子も叩かれたと言ってるが、私には連絡がなかったことを伝えると、「いやー、おたくのお子さんは、どうも叩いた覚えがないんですよね。思い出そうとしても、本当に叩いた記憶はないんです・・・」。足を叩かれたと言ってることを伝えると、「足ならありますよ」と即答。頭や顔と、足はそんなに違うのかと尋ねると、「そう言われると、足でも同じですよね。そうは思ってなかったもので・・・」。最後に言いにくいだろうことを言って下さってありがとうと先生が言って下さったので、私も話ができて良かったと思うこと、感謝の気持ちを伝えて話を終えた。先生の言い方は誠実だったし、理解してもらえたような気がした。
この先生は、私の担任でもあった人だ。途中で産休となったので、1学期間だけだったけど、他の子が激しく怒られているのを見て、怖く緊張して過ごしたのを覚えている。私が子どもだったあの頃から、去年度の終わりに定年退職に至るまで、この先生に体罰の周りへの影響や、足であろうがどこであろうが体罰でありそれが良くないことを指摘した人はいなかったのだろうか。体罰をされた子の親は、我が子が悪かったのだからと気持ちをおさめ、体罰をされていない子の親は、我が子がされたわけじゃないからと傍観者になってしてきたのだろうか。そもそも体罰を肯定しているということもあるだろうけれど。
子どもには、どんなことがあっても、暴力を振るわれても仕方がないということはないんだよと伝えていきたいし、我が子だろうが他の子だろうが暴力が起きているなら、傍観者ではいたくない思う。子どもには、不正なことが起きているなら、それに甘んじたり傍観者となるのではなく、行動を起こし現実を変えていけるようになってくれたらと思う。大人になれば、この社会は正義ばかりではないことに気づいていくのだろうけれど、子どものうちは、この社会にある程度の正義があることを伝えることが必要ではないだろうか。この社会には正義があると思えること、そのためには、体罰に限らないことだが、子どもを暴力や不正から守っていくことが大切ではないかと思う。
(ニュースレター12号/2005年8月)