理事長 村本邦子
カタルーニャの文化に触れて
前号ではアンダルシアとイスラム文化について触れたが、今回はカタルーニャの文化について触れてみたい。日本ではあまり馴染がないが、カタルーニャはスペインにある自治州のひとつで、州都がバルセロナ。言語はカタラン(カタルーニャ語)で、スペインと言っても、文化的にはほぼ独立している。フランコ政権下でカタランは禁止されたが、1978年の民主化以降、自治政府による積極的な言語政策がとられ、現在、公教育の場ではすべてカタランが使われ、看板もメニューもすべて最初にカタランが記されている。
その歴史は難しすぎて私にはお手上げだが、19世紀、他のヨーロッパ諸国に先駆けて産業革命を終えたカタルーニャでは、経済的繁栄に裏付けられ、文芸復興運動カタルーニャ・ルネサンスが起き、20世紀初頭、「モデルニスモ」が花開く。ピカソ、ミロ、ダリを生むことになるカタルーニャ美術を集めたカタルーニャ国立美術館も素晴らしかったが、とくにカタルーニャ音楽堂とサグラダ・ファミリアには感動した。
カタルーニャ音楽堂は、カタルーニャ・ルネサンスにおいて指導的役割を果たした合唱団オルフェオ・カタラのために建設され、世界遺産になった今もコンサートホールとして使用されている。日曜には国際的な催しとしてレベルの高いフラメンコを観たが、平日にはおそらく地元住民のための催しと思われるオルフェオ・カタラ少年少女合唱団のコンサートがあった。説明はすべてカタランで理解できなかったが、世界各地の民族音楽を原語で歌うというものだった。日本からは「会津磐梯山」と「赤い花」の二曲が歌われ、あきらかにフクシマを意識したもので、その感性には鳥肌が立った。
ガウディによるサグラダ・ファミリアは1882年に着工され、今なお建設が続けられている。完成まで200年とされていたが、今ではあと20年だろうと言われている。スペイン内戦の影響を受けてはいるが、続く世界大戦の間も着々とこんな壮大なプロジェクトを実行し続けるカタルーニャの人々の執念にはまったく恐れ入る。一面的な調和はしょせん薄っぺらなもので、主張やこだわりやぶつかり合いの泥沼からしか本当の美と平和は産み出され得ないのではないかと思い知った。私たちにはきっと、死ぬその瞬間までやり続けなければならないことがあるのだ
(ニュースレター39号/2012年5月)